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彼らが生きる意味とは?電車内の出来事をきっかけに考えた、「知的障害者」の存在意義

彼らが生きる意味とは?電車内の出来事をきっかけに考えた、「知的障害者」の存在意義

当記事には過激な表現が頻出します。関係者の方、感情的になりやすい方、客観的に物事を捉えられない方は読まない事を推奨します。

 公共交通機関を利用していると、たまに知的障害者らしき人を見掛ける。
 最近は電車内にて、せわしなく動き、時おり大声でワケの分からない奇声を発する男性に遭遇した。
 周囲には、彼の補助をする付き添い人は見当たらなかった。

 ここからは、個人的に感じた事をそのまま書く。
 俺からすれば、到底あり得ない話だ。
 正直に言うと、その時は『うるせえなぁ…』、『出て行ってくれねえかなぁ…』とさえ思った。
 他人に不快な感情を抱かせたり、迷惑を掛ける可能性があるのなら、彼ら(彼女ら)を見守る介護者が行動を供にする義務があるだろう…と。

 上記の出来事をきっかけとして、彼らの存在する理由を考えてみた。
 以降は、可能な限り客観的な立場から意見を述べていく。
 尚、当記事のテーマは「知的障害者」のみに絞る。

知的障害者を取り巻く2つの視点


 まず、彼らに対する目は大きく2つに分けられる。

1.「身内」の視点

 知的障害者が生まれた家庭は、間違いなく不幸になる。
 彼らは身内に対して悪意の無い負担を強い、法律がそれに拍車を掛けるからだ。

 だが生まれてきた以上、誰かが世話をしていかなければならない。
 彼らは他人の足を引っ張り続け、奈落へ導く事しかしないだろう。
「望まれて生を受けた知的障害者は居るのか?」と疑問さえ湧いてくる。

 知的障害者の家族は、

自分の子供だから…
存在を消す事は出来ないから…
などの理由から、生涯介護に悩まされ続ける事となる。
 そして、それは並大抵の精神力では絶対に不可能だ。

 実際に、介護を苦にして身内を殺める事件も少なくない。
 だからこそ、彼らと真摯に向き合おうとするその姿は、素直に尊敬すべき対象だと考えている。

2.「健常者」の視点

 こちらは、俺が属する視点だ。
 健常者は知的障害者を見た時、必ずと言っていいほど距離を置いてしまう。
 正確には、「どう接したらいいか分からない」と言うべきかもしれない。

 冒頭のように、「健常者」は意味不明な挙動や奇声を不快に感じる。
 その時は口でこそ言わないものの、何かしら奇異な目を向け、心の中では毒づいてしまう。

 実際に匿名の掲示板では、

知的障害者は邪魔
生きている意味が分からない

などの書き込みも見受けられる。

 上記が、健常者の心の声をそのまま反映しているとは言えない。
 しかし、そう感じている人が居ることは紛れもない事実。
 残酷だが、『マトモで良かった』と思うのもまた、人間なのだ。

 もともと(知的障害者の関係者を除く)健常者は、当事者とその身内ではない。
 故に、自分を『身内の立場』に当てはめることは出来るが、実際にどうしたら良いかという結論は永遠に出せない。
 身内以外は知的障害者を不快に思ってしまう…コレが健常者の真実だろう。

知的障害者を巡る論争


 匿名掲示板でよく目にする意見について、『健常者の立場』から個人的な見解を述べていく。

意見1.普通の子と同じような学校で勉強させてあげたい

『公平』を望む意見だが、俺は家族のエゴや自己満足でしかないと思う。
 本人が普通の学校で健常者と共に過ごす場合は、相応の介護が必要になるからだ。

 コレは周りからすれば、とても迷惑な話。
 中には、

介護するのが当たり前だろ!
なんでウチの子を助けないんだ!?
などと文句を言う、「モンスターペアレント(自己中心的かつ理不尽な要求をする親)」も居る。

 そもそも、知的障害者は勉学に励む仲間の邪魔をする可能性もある。
 それならば、本人の能力に合った教育を受けられる場所を探すことが、親としての役目なのではないだろうか。

意見2.なぜ知的障害者を批判するの?何か悪い事をしたの?

 こちらは、不快感を露わにする人に対し、知的障害者を擁護する声。
 健常者からすれば、彼らを不快に思うのはごく自然な話だ。

 元々考え方や価値観は各々違う。
「自分と同じ」にしようとする思考のほうが不自然だろう。

意見3.家族の立場になったら、そんな事言えなくなるよ

 こちらも、「意見2」と同じ擁護の声。
 至極当然だ。確かに俺の身内に知的障害者が居たら、考え方は180度変わるだろう。

 だが、“他人”はそうした状況に置かれていない。
 故に、やはり親身になる事は不可能なのだ。

「知的障害者」の生きる意味とは?


 医学の発達により、望む望まないに関わらず、本来なら生を受けない子供が激減した。
 命が大切な事は確かだが、その考え方が「知的障害者でも生き続けさせるべきだ」との風潮になり、その結果として彼らが存在している(安楽死も同様だ)。

 だが親にとっては、自分の子供である事に変わりはない。
 だからこそ、守りたい、成長を見守りたいと考えるのは、当たり前なのかもしれない。
 誰かが『生きて欲しい』と願う事、コレがそのまま知的障害者の存在意義なのではないだろうか。

 しかし、それが本当に正しいのかどうかはまた別の話だ。
「日本国憲法」には、以下の法文がある。

1.すべての国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

出典Wikipedia

 こう定められているなら、全国民は例外なく平等という事になる。
 実際、あなたは幼少の頃に

差別はよくない
と教えられてきたハズだ。

 だが、現実は違う。
 身近にも、一般人・有名人、貧困層・富裕層などの枠組みはいくつも存在する。
 前述の「意見1」もそうだが、大半の健常者は

人に迷惑を掛けずに暮らして欲しい
のが本音ではないだろうか。

 例えば、俺の小学校時代に知的障害者のクラスメイトが居た。
 彼は意味不明な言動をしながら、いきなり女子に抱き付き、体を触るという奇行が日常茶飯事。
 子供心だった当時でさえ、『気持ち悪い』と何度も思った。

 それにも関わらず、周りの大人たちは彼を過剰に守り続ける。

やめさせてください!
と被害者の女子が教師に訴えても、

仕方ないんだよ…悪いけど我慢してね
とマトモに取り合わなかった。

 今思えば、彼は養護学校(特別支援学校)へ行くべきだったと強く感じる。
 そこなら他人に迷惑を掛けず、人間関係のこじれを心配する事も無いだろう。
「十人十色」の言葉があるように、人の居場所もまた違うのだ。

 しかし、『平等=無差別』なら、この定義は既に破綻している。
 人間社会においては、“真の平等”など存在しない。
 俺もまた、「1人の健常者」であるように。

最後に

 いかがだっただろうか。
 俺はありのままの現実を書いたつもりだが、不快に感じたならここで謝罪したい。
 
 ふとした出来事から、「知的障害者」の存在意義を疑問に感じ、当記事の執筆に至った。
 これからは今一度、彼らに対する接し方を深く考えていきたい。

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